この灯篭は、東京上野の上野公園が1600年代に東叡山と呼ばれていた頃、そこに建立されていた寛永寺の中に在る常憲院殿、つまり徳川綱吉の霊前に、岡藩・中川家五代藩主、従五位下因幡守・中川久通より寳永六年(宝永六年、西暦1709年)正月十日に献上された灯篭であり、それを大正十年十二月に山口県下関市・日和山に新築された邸宅(現、日和庵)に、縁あって移築した灯篭である。
さて、その縁とはいかなるものか歴史をさかのぼってみる事1868(慶応4年1月7日)朝廷から徳川慶喜追討令を受けた官軍は怒涛の勢いで江戸へと迫りつつあった。
しかしながら勝海舟と西郷吉之助とが談判。江戸城は4月11日に無血開城となった
しかし、旧幕臣の中にはそれを潔しとせず徹底抗戦を叫ぶ者も少なくなかった。
その中心的な部隊が彰義隊であった。彼らは本拠地を徳川慶喜が一時期蟄居していた上野東叡山寛永寺にその本陣を構えたのである。
朝廷の任を受けた倒幕隊は長州藩を主力とし、その総大将に1868年4月27日に高杉晋作の率いる長州藩の大村益次郎をあて、江戸の秩序回復を命じた。
大村率いる西軍は5月15日早朝彰義隊の立て篭もる上野寛永寺に一世攻撃を開始した。しかしながら多勢に無勢の彰義隊の奮戦は正午頃までで、背後に備えた薩摩藩が銃や砲撃を開始すると急速に戦意を失い根岸方面に撤退した。
1868年5月15日午後5時徳川家最後の抵抗勢力である彰義隊は上野の山から駆逐された。
この上野寛永寺の戦いの勝利によって西軍は江戸を完全に制圧し、江戸から旧幕府勢力を一掃したのである。
この戦いが最後の戊辰戦争と言われている。
その時西軍の英雄である大村益次郎率いる奇兵隊及び長州軍は上野寛永寺に残された数々の品物を戦利品とし郷里山口へ持ち帰ったと伝えられている。
その中の一つにこの大灯篭が入っていたのではないだろうかと推測される。
しかしながら、その大灯篭が何故日和山の頂上にある日和庵に現存しているかは謎に包まれている。
日和山の頂上に建つ高杉晋作像、そのそばに運び込まれた大村益次郎縁の大灯篭この組み合わせは歴史のロマンを感じざるをえない。
さて、その東叡山・寛永寺について歴史をさ辿ってみると、非常に興味深い寺であった事が分かった。
滋賀県大津市にある山王権現・日吉神社は、全国3800の日枝神社の総本山である。大津の日吉神社は、天台宗の総本山である比叡山・延暦寺と対になって今日の都を守るという意味をもっている。
比叡山は京都では特別な山で、王城の艮(うしとら)に存在する為に、都全体の鎮護とされた。鎮護する為に、天台密教による修法が必要で、又、神道の面では比叡山・坂本の山王権現・日吉神社の神徳も必要であった。
比叡山・延暦寺と山王権現は、王城守護の為の車の両輪だったと言える。その王城守護の為の寺が江戸にも必要ではないか、という事を考えたのが天海(1536〜1643)であった。
徳川家康の懐刀として活躍した天台宗の僧天海は、延暦寺に倣って江戸城の北東の方角に寛永寺を建立した。
この寛永寺と対になって江戸の守り神とされたのが、山王権現・日吉神社だったのではないだろうか。
家康の死後、天海が幕府に乞い、江戸城の艮の土地である上野・忍が丘を貰い、徳川家の費用でもって比叡山に対抗すべく堂塔伽藍を起こしたもので、その事は江戸や徳川家の為に行った事である。その山郷を、東叡山・寛永寺とした。
天海の思想ではこれによって江戸は京と並んで日本国の首都となったのである。
日和庵 庵主/日海塾 塾長 吉本 日海
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2003年4月桜満開の中に立つ高杉晋作像
日海塾JPより徒歩1分
日和山公園内にある日海塾JPより眺めた関門海峡 |